千年質屋【第6回】吉川質店(後編)、山の手空襲とバブル期の地上げを乗り越え営業を継続

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千年質屋【第6回】吉川質店(後編)、山の手空襲とバブル期の地上げを乗り越え営業を継続

2023年08月29日

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千年質屋第6回 吉川質店(後編)

江戸時代後期から200年以上、東京都港区北青山で営業を続ける吉川質店。後編は昭和初期から現代まで、空襲による店舗焼失とバブル末期の店舗移転という2つの転機を中心にお伝えします。

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昭和初期に大質屋へ
山の手空襲で店舗を焼失

吉川質店 昭和25年の台帳。当時の質草はブラウス、ズボン、ワンピースなどの洋服が多い昭和25年の台帳。当時の質草はブラウス、ズボン、ワンピースなどの洋服が多い

吉川質店(東京都港区)は青山一帯の地主であり、江戸時代は両替商だった。質はその業務の一部として営まれていたが、明治維新で両替商が没落し、質業に本腰を入れるようになった。それを如実に示すのが、昭和9年の『東京市商工名鑑』にある「東京市内における大質屋」のランキングだ。その7位に7代目・吉川富吉氏の名前がある。明治時代の記録には吉川家の名はない。6代目・金次郎氏と富吉氏が大正時代から昭和初期にかけて質業を拡大し、東京で大質屋として認識される質店に躍進したのだ。

昭和初期に隆盛を誇った吉川質店だが、太平洋戦争末期に大きな試練に見舞われた。戦前、青山・赤坂地域には陸軍の施設が多かった。そのため、1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による山の手空襲の標的にされ、同地域の大半は焦土と化して、吉川質店の店舗や住居も土蔵を除いて焼失した。

当時の当主、8代目・喜美雄氏とその息子で9代目・雅春氏は鎌倉に疎開して無事だった。戦後、預金封鎖で預貯金が引き出せなくなったので、喜美雄は土地を政府に物納したり、売ったりして現金を捻出し、店舗と家を建て直した。今はBMW青山スクエアが入る吉川ビルのある場所だ。

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第566号(2023/08/25発行)23面

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