二代目・誠太郎氏の時代に後継者問題に直面した和田質店(茨城県水戸市)は、会社員だった甥の公一郎氏が店を継ぐことで危機を乗り越えました。公一郎氏は買取店の少ないエリアにいち早く出店することで利益をだす基盤をつくり、60歳で娘の大木優子氏に社長を委譲。優子氏はネット広告や女性と外国人の雇用など、時代に合った取り組みに挑戦しています。(以下本文敬称略)
女性や外国人採用で新たな店づくり目指す
三代目はブランド品扱い
県内に2支店を出店
本店は2000年に改装され、「和田質店PAWN'S GARAGE(ポーンズガレージ)」の名称でブランド品や貴金属などを販売している
1990年頃、二代目・和田誠太郎は64歳になり、和田質店の承継に頭を悩ませていた。子どものいない誠太郎が白羽の矢を立てたのは、甥の公一郎だった。公一郎の母和子は誠太郎の妹で、息子が小さい時に離婚して実家へ戻り、近くで暮らしていた。その頃一部上場企業の池上通信機に勤務していた公一郎は40歳になっており、水戸工場から東京本社へ栄転する話が持ち上がっていたが、無口だった誠太郎から「質屋はいいぞ」と言われ、会社を辞めて質屋を継ぐと言いだした。看護師だった妻の加代子は「むっつりしてて、気難しい人がやれるわけがない」と反対したが、恩義のある誠太郎夫妻を見捨てて東京へ行くことはできなかったのだ。
1994年、公一郎が三代目の社長に就任した頃、質屋は買取店や消費者金融にお客を奪われ始めていた。元々歴史好きで、戦略ゲームが好きだった公一郎は、その状況下で和田質店が生き残る方策を考えた。まず、東京の大手質店で勉強させてもらい、店でブランド品の取り扱いを始めた。
2000年には本店を改装し、店名を「和田質店PAWNS'GARAGE(ポーンズガレージ)」と改称。店でブランドバッグや貴金属などの販売を始めた。03年には水戸駅の反対側に「水戸駅南支店」を、14年には日立関連の中小零細企業が集まる場所に「日立店」を出店した。
第607号(2025/05/10発行)15面